『…われわれの眼や耳や頭脳は、人と同じような構造の胃や肝臓をもつように、賞められればうれしく、けなされれば不快である、そのていどの客観性をもち、ビフテキよりも天ぷらを好み、丸顔の女性よりもしゃくり顔の女性を好むていどに、主観的である。「泥棒にも三分の利」があるとすれば、人の素顔の主観性には五分の利がある。人間が平等であるというのは、そうした意味においても認められなければならない。』
これは増永の『性格入門』の一節です。
サーキュレーションのページで触れていますが、3類型の情緒派(ムード派)、行動派(ファイト派)、知性派(クール派)をそれぞれの円にして正三角形のそれぞれの頂点に配置し、「わかりよい-わかりにくい」を使い左回り右回りで解説しています。
そこでまず上の文章を現代風に分かりやすく訳すと
『人の目や耳や頭の働きは、胃や肝臓が人それぞれ違うのと同じように、完全に客観的ではありません。ほめられれば嬉しくなり、否定されれば不快になる。好きな食べ物が人によって違うように、魅力を感じる顔立ちが違うように、私たちの感じ方や受け取り方は、かなり主観的なものです。
「どんな立場にも一理ある」と言われるように、人が世界をどう見ているかという“感じ方の違い”にも、半分くらいの正当性はある。人は皆平等だという考えは、能力や立場だけでなく、そうした主観のあり方についても認められるべきなのです。』
となるでしょうか。
ここで、ひとつ目に留まる一節があります。
➞『ほめられれば嬉しくなり、否定されれば不快になる。』
タイプ論の世界では近年、12タイプ別の「褒め方」「叱り方」が、かなり細かく語られるようになっています。
それをタイプ論の延長線上の応用と理解するのであれば、それ自体を否定する必要はないでしょう。
ただ、増永はこの「わかりよい-わかりにくい」の循環、いわゆるサーキュレーションを用いながら、人間にはまず共通の身体性・感情反応があり、その上に類型的な偏りが乗るという順序を崩していません。
つまりここでは、タイプ論が有効になる“前段階”の構造が語られているのです。
誰であっても、ほめられれば嬉しくなり、否定されれば(怒られれば)不快になります。
これは、タイプ論以前の話ですね。


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